最終更新: skywalker_laurence 2016年06月25日(土) 14:34:49履歴
気や場のエネルギーを操って人を治してしまう、またその治癒の助けをするのがいわゆる回復魔法ですが、その仕組みを逆用すればちょっと太ったぐらいの脂肪なら簡単に痩せてしまうことができる、のです。もちろん、これは実際にやってみたらどうか、という話はおいておいてなのですが、論理的には可能で、単純に気などを使って人を治すと自分のエネルギーを少なからず使うのでそれで痩せる、というメカニズムなのです。ただ、くれぐれも気を付けて欲しいのは、あまり人を治し過ぎる、いわゆる大きな疾病だったり症状を治す作業であったりあるいはその魔法は、自分の体を壊すか壊さないかぐらいまでの限界まで自分のエネルギーを消費してしまいます。まぁ、そもそもの話でいえばちょっとした気分や症状を治すぐらいの回復魔法でない限りは自分の体を傷つけることになるので、まったくのど素人はおろかあまり積極的にやるべきではありません。そもそも気の使い方を熟知している人なら簡単に分かること、なのですがある一定以上の回復魔法を使うとなると、自然やその他のエネルギーから力を借りてこなければなりません。それくらい、単純に気や魔法だけで人を半分治してしまうのには相当なエネルギーを使うことになるので、ちょっと治すぐらいの魔法でなければ知識がないのであればあまり使わないほうがいいです。もちろん、いざ使うべき時が来たとしても、それはエネルギーなり自然がしかるべきところまで導いてくれるのでまったく心配はありません。まぁ、そもそも、今回の稿では回復魔法が人を治すその仕組みを逆用してちょっと痩せる方法を書くつもりでしたので、話をそちらに戻します。書いたように、ちょとした回復魔法を使うとエネルギーを消費するので、本来まともに人を治癒するのであれば量を熟さなければいけないので当然自然や自然物などから力を借りてきます。そうすることで、自分はちょっとくらいならエネルギーを消耗せずに人の気分くらいは治すことができるのですが、その仕組みを逆用して、人をちょっと治す代わりに自分の脂肪から(笑)エネルギーを持ってくる、のです。すると、どういうことが起こるか、といいますと単純に治した人は治るし自分の余分なエネルギーは消費されるのです。もちろん。必要以上に自分の身は削ってはなりませんが、闇雲に激しい運動をするより、ロクに考えずに運動するよりよっぽどエネルギーは消費されます。もちろん、自分の力を使った結果エネルギーがどこにいってどう消費されるのか、という具体的なイメージは必要なのですが、逆にいえばちょっとイメージするだけで人を治してしまうことは割と簡単、なのです。ただ、一応形式的には治す人とのある程度の同意は必要ですし、闇雲に回復魔法を使ってしまうのも、ダメです。必ずその辺のエネルギーの流れを把握していないと、どうしても自分の力を使い過ぎてしまう、のでそもそもこれが使えるのは、ちょっと太った場合だけ、というように覚えておいてください。あと、自分に回復魔法をかけてしまわないように注意しなければなりません。自分に掛けた場合だと、確かにうまく循環すればちょっとずつほとんどコストなしに痩せていくのですが、何か間違うとちょっとずつどんどん太っていく結果になります。まぁ、それくらいはどうでもいいことですが、ちょっとずつ確実に太っていくのであまりおすすめできることではありませんね。それはどうでもいいことですが、治す対象は、必ず人でなくてはなりません。動物でももちろんいいのですが、そもそもこの仕組みからして人と同程度の質量でなければエネルギーが交換されないので痩せることも満足に治すこともできないでしょう。動物のヒーリングをする方はその辺自然を経由して治すことには熟知していると思いますので、とりあえずちょっと痩せる目的であれば人に対してやったほうが得策です。エネルギー経由で何かを治す場合はそもそもお互いの質量が釣り合っていないとエネルギーが交換されないので治せないので、年齢も違ってその分質量も均等に違うのならうまくエネルギーも流れますが、同い年で性別も違わないのにあまりにも質量が違ったり性別が違っても質量が同じでは、そもそもうまくエネルギーが流れません。その辺の物理学にも感覚的に精通していないとそもそも人を治すことはできない、ので(といっても実際に治してしまう人は感覚的にやっている場合も多い)自然やその他現象を正しく理解した上で治癒の魔法は行う必要があります。ちなみに、治癒の魔法の条件はほとんど触れずに気やエネルギーだけで相手を治してしまうこと、で実際に物理的に治すのは現代でいう医療に当たりますし薬なんか飲ませたら治しているというよりむしろ相手の状態を変えている、だけです。なので、ここでいう治癒の魔法はそもそも相手を軽く気やエネルギーだけで治すことを指しているのであり、根本的に自分の症状を治したければそもそもお医者さんに行ったほうがいいでしょう。その方が手っ取り早く治りますし、なにより、ほとんどのお医者さんは「治癒の魔法」に長けている、と思います(笑)ともかく、軽く治すくらいのことなら治癒の魔法で十分なので、身近な人なら手っ取り早くかけてしまうのもいいかもしれない。もちろん、ちょっと消耗した、と感じたらチョコレートなり甘いものなり食べても結構ですが、根本的には、治癒というのは自然の力を経由して、あるいは自然の現象から力を借りてきて行うものだ、ということを忘れないでください。自然なき治癒は治癒した状態とはいいませんし、最終的に治癒そのものの目的は自然と一体となることにあるのです。そういった精神的なものも含めて治癒と呼ぶので、もしやるのなら本腰入れてやるといいでしょう。また、自然との調和を知ることは自分に対しての治癒の第一歩でもありますし、何より日頃生きていても気分がいいでしょう。四大元素に例えれば水と風の力、ですが自然の力をうまく使ってこそ、本当に治癒の道と呼べるもの、なのです。(あらかじめ書いておきますが、大きな怪我などは自分の力だけで治癒しようとは思わないでください。他人の力を借りるのも治癒の道のひとつ、なのです。物理的な症状で困ったらお医者さんにかかるようにしましょう。)
以上が回復魔法的なものを使って体の質量をちょっとだけ、減らす方法なのですがそれだけでは本稿のタイトル並みには至りませんので、ここでちょっと追加で解説を書き加えておきたい、と思います。回復魔法、というのは自然界の要素や自然のエネルギーを自分の体あるいは精神を通じて陰陽を癒しの方向に質量が変換するように活用する技でもあるのですが(治すときは増やし、減らしたり痩せたりしたいときは減らします)、上記の稿で書いたのは基本的に癒しの魔法を使う際に被験者側は若干病魔で減っていた分が治すときに増えるのですが、反対に陰陽を通じて術者側のエネルギーが移るとも考えられますので、同じ物理的な場に共有して存在していると考慮すると、術者側はむしろ体重が減ると言えるのです。この観点からすると、回復魔法を誰か疾病の軽い症状の人や自分の近しい人相手、あるいは自分自身に使うならば、やりすぎなければ当然その反作用で術者である自分自身もちょっと痩せられることにもなるのですが、基本的にこの作用は陰陽を通じて癒し、あるいは減衰の方向どちらかへ質量が変換する現象が起こるからこそ、起こるといえるものなのです。なので、基本的には陰陽の力を術者である自分の体あるいは精神力を通じて人と自然、あるいは人と人同士の間で情報的(あるいはこれは物理的なものなのかもしれませんが)に交換しているからこそ、起こることなのです。もちろん、情報的なものだけか、といえばそうではなく何か目に見えない情報的なものが動いているのが分かる、となれば当然そこに微粒子か量子それ以下の媒質が作用していると考えられますので(まぁ魔法魔術の実践的には情報的なもの、あるいはエネルギー的なもの、と解釈しておいてもまず間違いはないでしょうし、運用的にも困ることはないと思います。)とにかく仕組みはどうあれ基本的に回復魔法とは書きましたが癒しの技、あるいは気功などもありますがそういった治癒に使われるものは術者の体あるいは精神を通じて陰陽と対象の間でエネルギーを交換変換して元々あったものを元の場所に返す、という法則性で治癒を成立させているものがほとんど、なのです。また、治癒の魔法そのものは術者の体あるいは精神力を通じて単に術者あるいは陰陽と対象の間で質量の交換、あるいはエネルギーの交換が起こっただけ、とも考えれますので基本的には錬金術の「等価交換の原則」がぴったり当てはまっているとも考えられるわけです。そういう意味では錬金術の実験と大して変わりないことにもなるので、魔法魔術と錬金術は基本的には同じバックボーンの元に成立しているものだということもお分かりいただけるか、と思います。また医療器具や医療を通じて治癒する場合も道具が変わっただけで中世に医療器具が存在していなかったわけではもちろんありませんから結局基本原理は同じだともえいるのです。基本的に現代の医療も元を辿れば錬金術などをベースにしていますし自然療法なんてものはそのまま魔法魔術だったりします。存在の形や在り方が変わっただけで現在までに連綿と受け継がれているものが魔法魔術および錬金術だったりするので、やはり自然相手にまず追い求めるべきものは、基本原理なのだとあらためて実感させられますね。それでは、失礼します。あまり使いすぎずに、かつ癒しの方法が常に身の側に存在するように生活していきましょうね、という言葉で締めくくって終わりたいと思います。それでは、お疲れ様でした。
以上が回復魔法的なものを使って体の質量をちょっとだけ、減らす方法なのですがそれだけでは本稿のタイトル並みには至りませんので、ここでちょっと追加で解説を書き加えておきたい、と思います。回復魔法、というのは自然界の要素や自然のエネルギーを自分の体あるいは精神を通じて陰陽を癒しの方向に質量が変換するように活用する技でもあるのですが(治すときは増やし、減らしたり痩せたりしたいときは減らします)、上記の稿で書いたのは基本的に癒しの魔法を使う際に被験者側は若干病魔で減っていた分が治すときに増えるのですが、反対に陰陽を通じて術者側のエネルギーが移るとも考えられますので、同じ物理的な場に共有して存在していると考慮すると、術者側はむしろ体重が減ると言えるのです。この観点からすると、回復魔法を誰か疾病の軽い症状の人や自分の近しい人相手、あるいは自分自身に使うならば、やりすぎなければ当然その反作用で術者である自分自身もちょっと痩せられることにもなるのですが、基本的にこの作用は陰陽を通じて癒し、あるいは減衰の方向どちらかへ質量が変換する現象が起こるからこそ、起こるといえるものなのです。なので、基本的には陰陽の力を術者である自分の体あるいは精神力を通じて人と自然、あるいは人と人同士の間で情報的(あるいはこれは物理的なものなのかもしれませんが)に交換しているからこそ、起こることなのです。もちろん、情報的なものだけか、といえばそうではなく何か目に見えない情報的なものが動いているのが分かる、となれば当然そこに微粒子か量子それ以下の媒質が作用していると考えられますので(まぁ魔法魔術の実践的には情報的なもの、あるいはエネルギー的なもの、と解釈しておいてもまず間違いはないでしょうし、運用的にも困ることはないと思います。)とにかく仕組みはどうあれ基本的に回復魔法とは書きましたが癒しの技、あるいは気功などもありますがそういった治癒に使われるものは術者の体あるいは精神を通じて陰陽と対象の間でエネルギーを交換変換して元々あったものを元の場所に返す、という法則性で治癒を成立させているものがほとんど、なのです。また、治癒の魔法そのものは術者の体あるいは精神力を通じて単に術者あるいは陰陽と対象の間で質量の交換、あるいはエネルギーの交換が起こっただけ、とも考えれますので基本的には錬金術の「等価交換の原則」がぴったり当てはまっているとも考えられるわけです。そういう意味では錬金術の実験と大して変わりないことにもなるので、魔法魔術と錬金術は基本的には同じバックボーンの元に成立しているものだということもお分かりいただけるか、と思います。また医療器具や医療を通じて治癒する場合も道具が変わっただけで中世に医療器具が存在していなかったわけではもちろんありませんから結局基本原理は同じだともえいるのです。基本的に現代の医療も元を辿れば錬金術などをベースにしていますし自然療法なんてものはそのまま魔法魔術だったりします。存在の形や在り方が変わっただけで現在までに連綿と受け継がれているものが魔法魔術および錬金術だったりするので、やはり自然相手にまず追い求めるべきものは、基本原理なのだとあらためて実感させられますね。それでは、失礼します。あまり使いすぎずに、かつ癒しの方法が常に身の側に存在するように生活していきましょうね、という言葉で締めくくって終わりたいと思います。それでは、お疲れ様でした。
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てんさいもとじぶろぐのほそくをてんさい
これについてほそくしておくと、しろうとがかいふくまほうをつかっていいのは、きほんてきにじぶんにたいしてだけだからな。よほどみぢかにいるひとでだいじなひとなら、まぁつかってももんだいないのかもしれないが、きほんてきにしろまほうにしろ、かいふくまほうにしろ、まほうやじゅつとなのつくものには、かならずすべてなにかしらのだいしょうがつきもの、だからな。ことさら、げんだいにおいてはじゅうやばくだん、やくぶつ・どくぶつなんかのきけんぶつはんざいやせんそうなどあまりにもひょうめんじょうのにちじょうせいかつでよのなかぜんたいがそんもうするぶぶんがおおきいから、そういういみではそれをうめあわせするいみでよのなかをしゅうふくするまほうやかいふくまほうをつかうのはたしょうゆるされるのかもしれないが、しょせん、ひとのよくというものはたとえだれかをたすけたい、というものであっても、どれかのかためんからみればそれはじぶんかってなよくである、というぶぶんもつねづねはらんでいるものだからな、つねづねしろまほうやかいふくまほうふくめよのなかというものはそれじしんのばらんすをもってしてせいりつしているものだからな、はやいはなし、なんのだいしょうもなしに、ひとをたすけたり、げんきにしたりするのは、むりなことなんだ。ゆいつ、かのうせいがあるものとしては、じぶんやみぢかなだいじなひとであれば、たすけたりかいふくまほうつかったりするのはじぶんじしんのじんせいととうかこうかんすることになるんで、ぜんぜんもんだいないんだが、けっきょく、じゅつにしろ、まほうにしろなにをつかうにしても、とうかこうかんやだいしょうなしにおこなう、というのはむりなことなんだ。まぁ、あえてそこできぼうかんそくてきにいえば、そういうばらんすやきんこうとじぶんというそんざいをいったいかして、じぇだいのふぉーすみたいに、そのしぜんやよのなかのちからそのものをりようしてなおす、とか、あるいはそのちからをうまくちゅうしゅつすることによって、いいふうにつかえたら、きっとしぜんのちからとばらんすがりょうりつして、はじめてじぶんのおもうとおりに、なにかしらのちからがこうしできるようになるんだろうな。ぎゃくに、これまもってないと、よのなかでじぶんのちからをおもうとおりにつかうことってのは、むりなことなんだぞ、というようなことは、おぼえてかえってほしい、とおもうな。